皆さん、「伊藤博文」と聞くと、どんなイメージが浮かびますか?

そう、かつての千円札のお顔であり、何を隠そう日本で初めて「内閣総理大臣」になった人ですよね。
「明治の元勲」「大日本帝国憲法の父」「近代日本の礎を築いたスーパーエリート」…。 まさに、非の打ちどころがない「完璧超人」というイメージです。
でももし、そんな伊藤公が、プライベートでは「金も家もいらない、〇〇ができればいい」と豪語し、その奔放すぎる振る舞いから、ついには明治天皇ご本人から「伊藤、いい加減にしなさい」と直接お叱りを受けていたとしたら…?
今回は、日本政治のトップに立った男の、輝かしすぎる功績と、あまりにも人間臭い「ぽんこつ」な一面に迫ります。
そもそも「伊藤博文」のスゴさとは?(おさらい)
まずは、彼がどれだけ「スゴイ人」だったのか。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/12/)
功績①:日本初の「総理大臣」になり、システムを作った男
今でこそ当たり前にある「内閣総理大臣」という役職。これ、初代は伊藤博文です。 明治18年(1885年)、彼はわずか44歳という若さで、この国のトップに立ちました。
しかも、すごいのは「なった」ことだけじゃありません。 それまでの太政官制(だじょうかんせい)という古い仕組みを「これじゃアカン!」と根本から見直し、「内閣制度」という現代まで続く政治システムそのものを設計したのが彼なんです。
彼は単なるプレイヤーではなく、ゲームのルールブックを作った「ゲームマスター」だった訳ですね。
功績②:国のカタチを決める「憲法」を作った男
当時の日本には、国の基本ルールである「憲法」がありませんでした。 伊藤公は「このままじゃ欧米列強と対等に渡り合えない!」と一念発起。自らヨーロッパへ渡り、各国の憲法を猛勉強します(これが有名な岩倉使節団の一員としての活動にもつながります)。
特にドイツ(プロイセン)の憲法に感銘を受け、それをベースに、日本の国情に合わせたオリジナルの憲法草案作りに着手。 神奈川県の夏島(現在の横須賀市)にある別荘にこもり、井上毅(いのうえ こわし)らと共に、たった3ヶ月ほどで草案を練り上げたと言われています。いや、集中力スゴすぎでは?

その後、天皇も出席する枢密院(すうみついん)で半年かけて審議を重ね、明治22年(1889年)、「大日本帝国憲法」が発布されます。
日本の「国のカタチ」を定義した、まさに歴史的な大事業の中心人物だったのです。
功績③:他にもありすぎる功績(ダイジェスト)
- 立憲政友会を結成: 日本の政党政治の基礎を作りました。
- 日清講和条約(下関条約)に調印: 日清戦争の講和会議で全権として調印。
- 初代韓国統監: 外交の最前線でも活躍しました(※これには様々な歴史的評価があります)。
- 近代化の推進: 殖産興業や教育制度、貨幣制度の整備など、日本の近代化をあらゆる面でリードしました。
…もう、お腹いっぱいですよね。 吉田松陰の「松下村塾」出身のエリートとして、幕末の動乱を駆け抜け、明治という新しい国をデザインした天才。それが伊藤博文の「オモテの顔」です。
あだ名は「ほうき」。天皇陛下をブチギレさせた男
さて、お待たせしました。 ここからが本題、「知らない偉人名鑑」の真骨頂です。
これほどの功績を残した伊藤博文。さぞかしストイックで、真面目一徹な人物だったんだろうな…と思いきや。
私生活は、控えめに言っても「破天荒」でした。
【驚愕】伊藤博文のあだ名が「ほうき」だった件
伊藤公には、当時から有名な「あだ名」がありました。 その名も…「ほうき」。
掃除道具の「箒(ほうき)」です。 「え、なんで?」と思いますよね。その心は…
「掃(は)いて捨てるほど(女性がいる)」 または 「(女性を)掃いては捨て、掃いては捨てを繰り返していたから」
…ひ、ひどい(笑)。
そう、伊藤博文は、歴史に名を残すほどの「超」がつく恋愛体質(というか女好き)だったのです。
彼に関する逸話は、枚挙にいとまがありません。 「今までに1000人もの女性と関係を持った」と豪語したとか(※諸説あります)。 「金もいらなければ家もいらない。ただ女遊びができればいいのだ」とまで言い放ったとか(※諸説あります)。
いや、総理大臣がそんなこと言っていいんですか!?
スキャンダルが「新聞沙汰」から「書籍化」へ
もちろん、この奔放ぶりは隠し通せるはずもなく。
当時の新聞は、伊藤博文のスキャンダルを面白おかしく書き立てました。まさに現代の週刊誌も真っ青です。
あげくの果てには、明治35年(1902年)には『恋の伊藤博文』という、そのものズバリなタイトルの本まで出版される始末。 国のトップのスキャンダルがゴシップ本にされるなんて、前代未聞です。

規格外の「お手当」と正妻・梅子夫人
彼の遊び方は、とにかく豪快。 例えば、大阪・新地の売れっ子芸者だった「小吉(こきち)」さん。彼女は伊藤公のお気に入りとなり、愛人契約を結びます。
その「お手当」が、なんと月額200円。
「え、たった200円?」と思ったあなた。甘い。 明治33年(1900年)頃の200円は、当時の小学校教員の初任給が10円にも満たない時代。現代の価値にざっくり換算すると…
月収 約200万円(!?)
これをポンと支払っていた訳です。スケールが違います。 しかも驚くべきことに、この小吉さん、伊藤公の本邸(滄浪閣)に「顔パス」で出入りしていたというから二度ビックリ。
「え、奥さんは!?」 当然そう思いますよね。伊藤博文には梅子(うめこ)夫人という正妻がいました。
実はこの梅子夫人、彼女自身も元々は下関の芸妓(げいぎ)でした。伊藤がまだ若く、幕末の動乱で命を狙われていた際、機転を利かせて彼をかくまったのが出会いだったと言われています。 (ドラマチックすぎでは…?)
そんな梅子夫人、夫の浮気癖をどう思っていたのか。 普通ならブチギレ案件ですが、梅子夫人の対応は「神」レベルでした。
ある逸話によれば、伊藤公がいつものように芸者さんたちを連れて自宅に帰ってきました。 すると梅子夫人は、嫌な顔一つせず、笑顔で彼女たちを迎え入れ、帰り際には「主人がいつもお世話になっております。これでお車代(タクシー代)にでも」と、サラリとお手当を渡したというのです。
さ、さすが元売れっ子芸妓…。器がデカすぎる…! 一説には、若い芸者さんたちに「あなたは国事に忙しい公(伊藤のこと)の慰めになっているのですから」と、逆に励ましていたとも言われています。
夫の浮気相手に「いつもありがとう」とお金を渡す正妻。 …もう、凡人には理解が追いつきません。
【頂上決戦】「伊藤、いい加減にしなさい」
しかし、この伊藤公の奔放ぶりは、ついに「天」の耳にまで達してしまいます。 そう、明治天皇です。
総理大臣が新聞で連日スキャンダルを報じられ、ゴシップ本まで出されている。 これには、いかに温厚な明治天皇といえども、我慢の限界だったのでしょう。
ある時、明治天皇は伊藤博文を呼び出し、こう言ったと伝えられています。
「伊藤、いい加減にしなさい」 「もう少し、慎んではどうか」
国のトップ(総理大臣)が、国の象徴(天皇)から、「女性問題」で直接お叱りを受ける。 歴史広しといえども、こんな珍事は後にも先にもこれっきりではないでしょうか。
伊藤公も、これにはシュン…となったことでしょう。 (まぁ、その後もあまり反省しなかったようですが…)
ちなみに、そんな伊藤公ですが、女性なら誰でも良かった訳ではないようです。 あの津田塾大学の創設者である津田梅子(奇しくも同じ「うめこ」ですね)が、岩倉使節団に幼くして同行した際、伊藤は彼女の才能を高く評価し、帰国後もずっとサポートを続けました。 彼女に対しては、まるで兄のように接し、決して手を出さなかったと言われています。
…やればできるんじゃないですか、伊藤さん!
まとめ
さあ、いかがだったでしょうか。

↑若いころの伊藤博文
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/12/)
(オモテの顔) 日本初の総理大臣にして、憲法を作り、近代日本のシステムを設計した「完璧超人」。
(ウラの顔) あだ名は「ほうき」。女性スキャンダルで新聞や本を賑わせ、ついに明治天皇から「いい加減にしろ」と叱られた「恋愛体質」。
このギャップこそ、伊藤博文という人間の奥深さだと思うのです。
もちろん、現代の価値観で見れば「コンプライアンス的にどうなの?」とツッコミどころ満載です。
しかし、清濁併せ呑む(というか濁り多め?)そのエネルギッシュな人間性、そしてそれを支えた妻・梅子夫人のとてつもない器量。
そうした「完璧じゃない」人間臭さがあったからこそ、幕末から明治という激動の時代を乗りこなし、あれだけの大事業を成し遂げるパワーが生まれたのかもしれませんね。
「知らない偉人名鑑」、次回もお楽しみに! この記事が「面白い!」と思ったら、ぜひシェアしてくださいね。



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